サコダ小水力設計は、小水力発電コンサルタントとしてエコで自然に優しい小水力発電への関心が高まる中、導入に際しての技術検討や複雑な法規制のしくみなどに戸惑い、足踏みされている方々からのご依頼に応じて、小水力導入に際しての基本設計や事業性評価を行い、最適な小水力発電施設導入のご提案を致します。FIT制度もいつまで続くのか分りません。事業者は決断する時です。
20代編です。
S55鹿児島工業高校を卒業し関電に入社。
関西電力学園で1年間修業。現在は高卒とか中卒採用をしてないので廃校。残忍。。
メシは全員500名程度収容可能の食堂にて。
漬物が豊富にあり、卵も食べ放題。
飯も美味しく良い。
風呂はでかく混雑。
中卒入社の子たちとトラブルあり 一触即発まで行くが言い合いで済んだ。
舎監に喫煙を見つかり坊主頭に。
しかし毛はすぐに生えるのであまり効果ない。
就職したのに何でこんな高校みたいな生活の延長をしないといけないのかな と自問。
これが超大企業の教育か と納得。
1年後の昭和56年4月に北陸支社に配属。
当時は庄川電力所成出制御所。
56豪雪の年明けであり4月と言え国道156号には残雪多々。
成出制御所で現場叩き上げの方の下で働く。
夜ひまだと近所の旅館に吞みに行っていた。当時は良い時代であった!
日本酒オンリーでみなさん強いのでトイレで戻して付いて行った。
寮の部屋にはカメムシ(へくさんぼう)がいっぱい入ってきて潰したら臭くって苦労した。
白川まつりで濁酒を飲み過ぎて部屋寝てると垂直嘔吐して顔面パックした。。。臭かった。。
1回大出水あるが大したことなし。
昭和57年10月神通川電力所笹津制御所配属
成出制御所から笹津制御所へと転勤。
日勤からダム勤務となる。
ダム勤務は初体験で緊張。 責任感を痛感。
しかし大した出水はなくおわる。
初期放流程度はあったか?
当時は夜勤での飲酒を容認していた。私もビールは呑んでいた。
角川、坂上、打保ダムで1か月ずつ勤務。
夜勤明けに飛騨古川や高山まで同僚とパチンコやボーリングに行って遊んでいた。
角川寮の近くの酒屋さんでウイスキーを買って呑んでいた。リザーブやロイヤル、ホワイトなど。
大阪他の同期は技術屋としてバリバリ働いており自分自身はあまり実りの無い時期でした。
昭和58年4月神通川電力所勤務
ダム勤務から日勤へ。
ここは保全管理する部署。
いきなり、蟹寺発電所水圧鉄管取替工事の現場監督へ。
今は亡き某係長や先輩らから「水圧鉄管取替とはこうするのや」とご指導を受けて勉強して無事に完工。
川崎重工とは笹津のスナックでよく吞んだなー。いい人たちであった。
先輩には苦しめられた。言葉のパワハラの典型かな。
自殺しようと思い笹津寮の部屋でカッターナイフと睨めっこした思い出がある。
後述の大型工事の本店DRでも本店担当だった。チクチクと細かい人やった。
一日中、富山と大阪間で社内電話して左耳と腕が痛くなった。
坂上、打保ダムの洪水吐ゲート取替の現場監督も担当。
洪水吐ゲートの溶接工法など「鉄」を学び自身に叩き込んだ。その後の人生に非常に役立った。
昭和61年北陸支社土木建築課
今までの仕事が評価されたのか上位組織へ異動。
主に大型改修工事を任される。
20代後半
現場を管理する立場となる。
黒部川、庄川、神通川と3電力所の大型工事の計画・設計を任された。
主な仕事
ゲートプロジェクトチーム(通称:ゲープロ)
北陸支社管内の老朽化した洪水吐ゲート6ダムゲートの取替。
当時の国の「内需拡大」政策に会社が協力し前倒しで実施されたもので私は計画か
ら参画。
当初は角川ダムゲートや小原ダムゲートの取替計画を検討。
特に後日実施した小原ダムゲートのトラニオンピン取替の計画には苦労した。
ゲープロが始まり現場は黒3、黒2ダム洪水吐ゲートの取替工事を2年間で完了。
口煩い上司がいてよくトラブル発生。
髄膜炎を患う癖がついたのはこの時期だった。
この頃、将来の奥さんがアルバイトに!!
金物全般を学ぶ。
庄川水系排砂路閉塞工事
使用されず老朽化した排砂ゲートを閉塞する工事。
小牧、千束、祖山ダム だったか。
河川管理者への説明に時間がかかったが許可される。
太平洋プレートとユーラシアプレートのぶつかりあいは庄川水系は関係なく土砂流
出が少ないことで閉塞しても問題ないことなどを説明した。画期的?
蟹寺発電所水槽ゲート取替工事
新入社員の某君にラーメン構造を検討してもらう。当時はそこの技術力なし。
この頃、髄膜炎にて数度入院。
原因者?の上司もお見舞いに来てくれた。
この病に数回悩まされるがお見舞いに来たアルバイトとこれがきっかけでお付き合い
開始。
熱烈アタックにてゲット! 平成元年9月に結婚し社宅生活が始まる。
新婚旅行はヨーロッパ10日間。
成田→ロンドン→ローマ→ジュネーブ→パリ→コペンハーゲン→成田とハードな旅で
あったが、生まれてきてから一番楽しかった。
悪夢のヒースロー事件(奥さんが下痢でトイレに駆け込み 無事に間に合う)
ローマのレストランで料理が遅い事件(晩飯に3時間くらい?)
パリの晩御飯でエスカルゴの伴奏で爆笑(かたつむりの歌)
マッターホルンの雄姿 などなど
平成3年に東海支社へ異動
これは建設工事に従事したいと直訴していた当時の北陸支社土建課長の計らいで、美濃川合発電所の建設計画に従事。
名古屋市にて約2年間、計画~実施稟議、願書作成。
関電には賢い高卒人が多いなーと実感した。
昔、技術の関電と言われたベースは「高卒」だと思った。
けど今は採用していない。。。